20年前の真実“拓銀破綻の日”

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知らないと人生を10倍損する金のしくみ」Vol.18

 

「20年前の真実“拓銀破綻の日”」


1997年11月17日

北海道経済を大きく揺るがした日。

 

私のように、この件で、人生が大きく変わった」も・・・。

 

20年前の本日、一体何が起こったのか?

 

拓銀破綻の前日

それは、前日の11月16日(日)から始まった。

当時私は31歳。

融資課の課長補佐。

前年に結婚し、娘が生後7カ月だった。

 

夕方、上司であるN課長からの突然の電話。

N課長「高橋君、落ち着いて聞いて欲しい」

私「はあ・・・」

 

N課長「実は、明日、銀行で取り付け騒ぎが起きるから・・大量の現金を準備しないといけない。今から銀行を開けて欲しい」

 

私「はあ・・・???」

「意味分かりませんが・・・・」

N課長「とにかく、何時なら銀行開けてくれるだろうか?」

 

ちなみに、私は「鍵当番」だった。

そんなやり取りが続き、記憶では18時頃、男子行員のみ全員集合した。

 

詳しい説明は一切なく、3名で「資金センター」へ大量の現金を取りに車で移動。

 

私とN課長は留守番。

その間も何の説明もなし。

N課長も何も聞いてないようだった。

 

20時だけ21時だか、ようやく大量の現金」が支店に到着。

 

 

「明日は朝6時30分に銀行を開けて欲しいとの指示。


拓銀破綻の日

そして、運命の日。

指示通り、6時30分に銀行を開けた。

既に、「大量のFAX」が流れていた。

その枚数、20枚はあっただろうか?

 

 

すぐに目に入ったのが

北洋銀行への営業譲渡

本州店は中央信託銀行

 

朝9時のオープンまでにお客様向け説明ポスター作成」の指示がありしかも「長文」。

支店にいるのは自分1人。

 

もう考えている時間はない。やるしかない。

ポスター完成するまで1時間以上要した頃、他の行員も次々と出勤。

 

こんな日に限って、支店長が東京出張で不在。

9時のオープンまでの事は一切覚えてない。

後から分かったが、8時30分頃、大蔵大臣による記者会見が行われたようだ。

 

そして、運命の9時

シャッターのオープンと共に、人、人、人・・・

 

 

もの凄い勢いで店中が埋まった。

異様な光景だった。番号札も無視し「解約させてくれ!」と叫ぶ声。

 

電話も終日鳴り止む事はなし・・・。

こんな状態が15時を過ぎても続いた。

 

実は、この日、ある会社から手形割引」の申込を受けていた。(融資)

 

それは、以前から決まっていた事だが、状況が状況なだけに「融資」を実行していいのかどうか?

 

本部に連絡するも、繋がらないのです。

 

おまけに、支店のFAX機も、大量のFAXが原因なのかなんと、まさかの故障!!

 

 

もう、支店の現場は全てが異常な状況でした。

融資を予定していた会社にも丁重にお詫びし、他銀行での申込をして頂くようお願いさせて頂きました。

 

シャッターが閉まった後も、全員「無言での仕事・・・。

 

そんな折、17時過ぎ、ある会社の社長からの届け物が・・・。

 

なんと、大量の「ケーキ」です!

 

疲れただろうから、召上って下さいとの伝言を従業員に託し本当に真心のプレゼントをして頂いたのです。

 

その瞬間から、皆の顔に、その日初めての笑顔」が・・・。

会話」が・・・。

 

あの「ケーキ」のプレゼントで、ようやく全てが「普通」に戻ったのです!

 

いざ」、という時に、人間の本当の「」が分かるものだ、と感じた。

 

あの時のA社長の「ご恩」は一生忘れません。


拓銀破綻後の2つの異変

破綻から1週間が過ぎ、支店の中も落着いた頃、異変が続いた。2つご紹介します。

 

破綻した銀行に新規口座の申込

突然、私の融資の窓口に・・・。

お客様「あの、新しく、口座を作りたいのですが・・・

私「えっ!」「新規の口座ですか・・・」

「破綻したのですが・・・」

 

*1週間、来店されるお客様は100%が解約」だったのに・・・・・。

お客様「はい、作らせて下さい」

私「はい、ありがとうございます」

 

融資の申込が殺到

破綻から2週間過ぎた頃から、更なる異常事態が・・・

なんと、融資の申込が私の窓口に殺到したのだ!

 

なぜか?

話しを聞くと「他の銀行が貸してくれない」

「拓銀しかないんです・・・」

*これも「拓銀破綻」の影響か?

他行が融資に慎重になったのだ!

ちょうど12月の年末まで、忙しい毎日が続いた。

 

しかも、実は、同じ地域で毎月「預金残高」「融資残高」を本部、大蔵省にも報告されていたが、なんと、私の支店の融資残高が増えている「破綻しているのに何事だ!」とのお叱りが入ったのだ。

 

支店長からも「少し押さえるように」指示はあったが、困った企業を「倒産」させる訳にはいかず、しっかり「審査」をさせて頂いた上で融資はさせて頂いた。

というか、その時の自分に支店長も本部も大蔵省も何も怖いものはなかった。

 

1998年3月末での「自主退職」も決めていた。

「退職」まで悔いなく仕事をしようと、10年間の銀行生活で初めて自分の信念」を貫いた仕事ができた。

 

不良債権も全て回収して、退職しよう」と決意した。

 

不良債権」といっても、せいぜい、数万、数十万の「ローン」ばかり。

自信を持って「健全経営」をしていた支店だった。

 

というか、ほとんど支店は「健全」だったはず・・・。

世間で噂される「大口融資」に係わっていた人間はほんの一部ではないだろうか。

 

しかし、「破綻」した事は現実。

 

多くの方にご迷惑をお掛けした事も現実。

 

「これからは謙虚に生きよう」「人の苦労が分かる人間になろう」様々な思いを残しながら、1998年3月31日付で「自主退職」をさせて頂きました。

 

これ以上の部分は、親しい方にお酒を飲みながら語らせて頂いております。

 

ブログではここまで・・・。

 

本日も、最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。

 

コメント

  1. 工藤正彦 より:

    とてつもない経験をされて今があるのですね❣️
    そして、翌年7月に新たな出会いが・・・(笑)

  2. 豊田 より:

    僕もニュースは覚えています。すでにISしてました
    ゆっくり話を聞きたいですね。

    • nobu1118 nobu1118 より:

      私はニュースを見る時間も余裕もなかったです。今頃、20年前の記者会見見てます。
      いつも、応援ありがとうございます。

  3. 豊口直敏 より:

    働く方達の当日の気持ちや様子が伝わってきました。
    感動しました。